2007年07月10日

松上芳雄さんの聴き取りの記録

「消防ポンプ」と呼ばれた先生
山梨県山梨市

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松上 芳雄さん(79歳)
大正15年(1926年) 生まれ

硯で有名な山梨県硯島村雨畑に生まれる。勤め先の製鉄会社が倒産した後、教職に就いた。ベルが鳴るとすぐやってくるというので、ついたあだ名が「消防ポンプ」。多くの生徒に信頼され、その関係は今現在にも及ぶ。

聴き手:松上久子(妻)、松上 哲(次男)、松上 一平(孫)
聴き取り日:平成17年1月30日

■硯の村に生まれる
山梨県の硯島村雨畑――今は過疎のこの村も、往時は林業、お茶、硯の産地として、多くの人々が暮らしていた。

芳雄 山梨県の硯島村雨旗、現在の南巨摩郡早川町雨畑で生まれた。昔は早川町も6000人くらい人がいたんだけど、今はすっかり過疎化が進んで、1800人くらいしかいないんじゃないかな。

── それは何で?

芳雄 産業が衰退したこともあるね。硯島村は林業、お茶、硯なんかが盛んだったから。林業はもうすっかり衰退してしまったし……。硯も、もう職人がいなくて、今はもう、2人しかいないみたい。

── 硯が有名だったの?

芳雄 そう、雨畑は硯で有名な地域なんだよ。「雨畑硯」といって、中国の「端渓」なんかと並び称されるくらいの最高級品だ。うちにもいくつか置いてあるだろう。ほら、こういうの見たことあるだろ?(と取って見せる)

── ああ、これなんだ。そんなに高級な硯だったんだ。小さい頃、何も知らずに使ってたような気がするな。

■結婚のあいさつは留置所で
職場で知り合った女性(内田久子)に一目ぼれ。彼女は会社の社長の姪っ子だった。労働組合の役員をしていたため、周囲の猛反対にあう。結婚するまでに2年かかった。

芳雄 山梨工業専門学校を卒業してから横浜の製鉄会社で働いていたんだけど、そこの工場長が私の学校時代の恩師で、その人の1年後輩の方が、日本電化の工場長だったんだ。私が山梨県出身だったから、「お前は山梨に帰ればいいじゃないか」ということで、山梨県にある日本電化に職を紹介してもらった。そこでおばあちゃんに会った。一目ぼれだったね。会って2年くらいしてから結婚したかな。でも実は、当時は労働組合の役員なんかしてたから、結婚の反対をされてね。

── どういうこと?

芳雄 おばあちゃんのおじさんが日本電化の社長だったんだ。労働組合員と社長は対立する立場だからね。だから結婚する前はもちろん、結婚してからも団体交渉なんかやっていると専務がやってきて、「君はなんだ」と。「社長の親戚じゃあないか、会社にたてつくとは」と。「いえいえ、それとこれとは違いますよ。」とかなんとか、結構もめてたんだ。

── しかし、よく結婚できたね。

芳雄 おばあちゃんのおじさんは、最後まで反対してたけどね(笑)。だけどおばあちゃんのお父さんが賛成してくれたんだ。おばあちゃんのお父さんとはなんだか気があってね。おばあちゃんのお父さん(内田孝行)は職業軍人で、戦時中、司令官をしてたから、その頃にはB級戦犯として、留置所にいたんだけどね。二人して会いに行って、許しを得たんだ。

■教育なんてもんはようわからん
「俺はなぁ、今まで越中ふんどしひとつで、塩をなめながら、鉄を溶かしてきたから、教育 なんてもんはようわからん」と生徒に挨拶して、いざ教職に。子供達に、教育というものを教えてもらったという。在職中は「消防ポンプ」と呼ばれ親しまれた。

── おじいちゃんは先生をしてたけど、どうして先生になったの?

芳雄 さっき言ったように元々は工業専門学校を出て、製鉄会社に勤めていた。入社した頃は、朝鮮戦争のブームで随分景気がよかった。朝鮮特需というやつだ。それが朝鮮戦争が終わったとたん、会社がパタっと潰れた。その時同僚に、「教師にでもなれや」って言われてね。「教師なんてことが俺にできるか」なんて言って、半年ぐらいは失業保険貰いながら生活していたんだけど、食っていけないから、なんとなく「じゃ、教師でもやろうか」と思って、教員の勉強をして、免許をとってね。

── それが何歳ぐらいの時?

芳雄 28歳。それで教師として初めて学校に赴任した時、子供達の前でこういう挨拶をしたんだ。「おい、俺はなぁ、今まで越中ふんどしひとつで、塩をなめながら、鉄を溶かしてきたから、教育なんてもんはようわからん。だけどな、数学ってのだけは勉強して面白かったから、お前らにしっかり教えてやる」。

── へえ、ずいぶんな挨拶だね。

芳雄 しかし、教師になってから、子供達からいろんなことを教えてもらったよ。ある時、「正の数、負の数を知っているか?」って聞くと、「はい、0より大きい数と、小さい数と教科書に書いています。でも、よくわかりません。0はない数なんだから、0より小さい数なんてあるわけないじゃないですか」という子がいた。要領のいい子だと、「なるほど、そういうことなんだ」と特に考えもせず、教科書に書いてあることを暗記してしまうんだけど、その子は違った。「なるほど、確かにそうだな」と思って、0を基準として見たときの正の数、負の数の対応関係を図を使ったりしながら教えてあげたんだ。そうしたら最後にその子が、「ああ、なーるほどなぁ」と言ってもっのすごく喜んだんだよ。「ああ、なーるほどなぁ」ってその声を聞いたとき、ものすごく嬉しかった。百点取った時の喜びと、分かった時の喜びと、どっちがいいって言ったらば、「そりゃ先生、分かった時の喜びのほうがずっといいよ」と言う。国語の点数、数学の点数が何点で、社会を合計して合計点が上の方が成績が上だとか、そんなのは何の意味もない。自分で考えて、ああこうなんだと納得することが重要なんだ。分かる喜び、学ぶ楽しさ、そして教えるということ、教育とはこういうことなんだと子供たちにつくづく教えられたね。

── 本当に、子供に教えられるってことがあるんだね。

芳雄 ある時、私の授業に関する感想文を書いてもらったんだけど、その中にこんなのがあった。ちょっと読んでみるね。「とても楽しい授業です。楽しいと言っても、おもしろい、愉快なということではありません。私たちは勉強の楽しみが分かってきたのです。他の先生とは違った何かがある。他の先生とはどこかが違う。松上先生、生徒の意見を尊重してくれる先生。授業の内容も充実していて、毎日数学の時間が待ち遠しいことがありました。怒るときには怒る、授業の時にはみんなと一心同体で勉強する。分からないところがあれば、とことんまで追求していく先生。先生は今の言葉で言えば、スーパーマンのようだ」すごく嬉しかった。教師をやっていて本当に良かったと思ったよ。

── あだ名なんかはあった? ひょっとして、スーパーマン先生とか?

芳雄 あったよ、スーパーマンじゃなかったけどね(笑)。生徒たちに、よく「授業が待ち遠しい、待ち遠しい」といわれたから、チャイムが鳴ると同時に教室に入るようにしていたんだ。それでついたあだ名が「消防ポンプ」。ベルが鳴ったらすぐ来るってことだな。

── それはすごく名誉な渾名だね。

芳雄 そう。それに授業が待ち遠しいなんて、教師にとってはすごく嬉しいし、名誉なことだよ。

── おじいちゃんは、先生をやめて議員をやっていたと思うんだけど、なんで、教師を辞めて議員になったの?

芳雄 教員を辞めたのは55歳の時。真実を貫く民主教育をやろうと考えていただから、山教組の問題には我慢ができなかったんだ。まだ私が教員組合に所属していた時「こんな組合があるか! 子供のことを考えてやっとらんで、選挙のことだけ考えて何が教員組合か!」って言ってたら、共産党を支持する人たちが「涙が出るくらい嬉しかったよ」と。「あなたも共産党に入ってくれないか」と言う。教育を良くするには、政治から変えていかなければと思っていたんで、それじゃあと思ってね。うちの親父も兄貴もバリバリの自民党主義者だけど、基本的なところは同じものだと思った。

■次世代に向けて
── じゃ、最後に何かメッセージを。

芳雄 全て真実は最初は馬鹿にされる、次には暴力的に反対される。でも、正しいことは正しいんだと人の意見に左右されず、自分なりに自分のあるべき姿というものを考えて、それを目指していって欲しい。で、一人ひとり人間というものは違うということもきちんと理解して、その上でチームワークを大切にして欲しいかな。「我は我なり、されど仲良く」だな。そういった前提があって、みんなに影響のある、政治、経済等についてみんなで議論していけたらいいんじゃないかな。
posted by モセ at 14:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする